近侍日記1
八重、八笑
黒姫は固っていた。
目の前には膳が置かれている。お椀にはほかほかと湯気を上げている炊きたてごはんがよそわれ、手前に揃えられた箸のほか、胡瓜の浅漬け、お揚げのお味噌汁、ベーコンエッグにはプチトマトがちょこんと添えられていた。まるで私を食べて、とでも言っているような可愛らしさだ。いや、言ってないけど。
「こ、これは…!」
慌てた黒姫が周りに助けを求めたのは、至極当然だ。何故なら、初めて口にするひとの食事なのだ。
一方で、雪城も固っていた。
自分は狼の姿をしているが、これでも道祖神の眷属である。それがどうしてここにいるのかといえば、黒姫がいるからに他ならない。そんな雪城の目の前には、丼がひとつ置かれている。審神者が食卓を共にするよう指示したからだ。
勿論、最初からスムーズに事が運んだわけではない。
大広間にて改めて皆に紹介をしてもらったのだが、そこで再び審神者の絶叫が響き渡った。でかいシベリアンハスキー連れてるねえと引きつり笑いする主に、いいえ雪城は狼ですと、黒姫がさらっと爆弾を落としたからだ。
「キミも黒姫と一緒に来てくれたんだね」
審神者は犬小屋用意とか罰当たりなことを言った負い目からか、黒姫に言われたとおり、火を通していない豚肉ブロックを豪快に丼に入れた。そうしてやおら柏手を打ち、お座りしている雪城の前に置いた。
五虎退の虎たちのように、雪城もまた喋ることはない。今は存在することに霊力の殆どを消費しているからだ。しかし、その知識は、過ごした年月の分だけ人を遥かに凌駕しているのだが、悲しいかな、今の姿はご飯前のマテの姿勢にしか見えない。
「ああ、食べ方はわかるか?」
付喪神の分身である刀剣たちは、当然ながら人としての生活に不慣れである。指使いや所作は勿論のこと、衣食住全てにおいて説明が必要だった。
配膳中の薬研が黒姫に声をかけると、ブンブン首振り付きでノーと告げられる。然もありなん、薬研は五虎退を呼んだ。
「任せたぞ」
「ま、任せてください…!」
末っ子気質の五虎退が、アニキに頼られて断るはずがない。気合十分、ややしゃちほこばって応えた。
五虎退による、黒姫のためのマナー講座、開始!
「え、えと…箸、です」
「はいっ」
「あのっ箸は、利き手で、持ってください」
「利き手?」
黒姫はすちゃっと両手の甲を五虎退に向けてみせた。
彼ら短刀たちと同じ、小さくて白い手だ。これがあの黒光りする太刀を扱うとはどうにも想像しにくいが、刀の付喪神である彼らがそれを疑問に思うことはない。
こてり、と首を傾げて彼女が問えば、ぱっと五虎退は右手を挙げた。
「えっえっ…えと、刀を持つ手です!」
「はいっ」
「黒姫。箸はグーで持たないの。それじゃご飯を食べられないでしょう」
私は保育士か、そうだったのか。審神者はちょっと遠い目をして庭の外を見た。
「…そう、そうです!さすがですぅ!」
目の前に用意された美味しいご飯の威力なのか、当番の薬研が席に着く頃には、五虎退の講座は終盤に差し掛かっていた。
「じゃあ、大将」
「ん」
審神者がぐるっと広間を見渡すと、個性豊かな7人の顔がこちらに向けられ、次の言葉を待っているのがわかる。
彼女はパン!と手を打ち、号令をかけた。
「いただきます!」
「「「「「「「いただきます!」」」」」」」
いつもより、一人と一匹が増えた昼食が始まった。
黒姫は恐る恐る白米を箸で掴み、口へと運ぶ。マナーとして口を噤み、ゆっくりと咀嚼する。やがて、じんわりお米の甘さが口内に広がっていくと、ぱあっと表情が綻んだ。
「美味しいです!」
「ね、仁多米はいいでしょう」
今日は、新しい仲間が来たお祝いに、とびきりのお米を炊いたんですよと秋田が説明してくれる。
自分を歓迎してくれている、そのためのご飯なのだと言われて、黒姫の顔が一層輝いた。
「おかわりが必要だったら言ってください。でも、初めてならあまり入らないかもしれませんが」
「はいっ」
「いい食べっぷりだねえ、作りがいがあるぜ」
「本当にね。あ、初めてなんじゃない?鍛刀してあれだけ食べる子って」
「…どうせ俺は食べられなった」
「いやそれは私が料理に失敗したから…って、国広!黒歴史をバラさないで!」
審神者のダメ料理っぷりは、山姥切に次いで小夜からも発言が続く。
「……僕の時は、レトルトだった」
前田と秋田の呆れ顔が突き刺さる。
「主君…」
「主君」
はい、すみません。審神者は大人しく謝った。
この本丸は、民主主義精神に則り運営されるホワイトな職場です。
「ご馳走様でした」
「はい、よくできました」
五虎退に教わったことがちゃんとできたことに対する褒め言葉をもらい、えへへと黒姫は照れ笑いを浮かべた。
「苦手なものが分かったら教えてくれ。まあ、善処する」
「ありがとうございます。多分、大丈夫です」
ね。そう言う黒姫は、大人しく寝そべっている雪城の頭を撫でている。雪城は尻尾をパタンパタンとする以外に反応はないが、どうやらこちらも新しい住処で落ち着くことにしたようだ。
審神者はふと疑問に思ったことを黒姫に尋ねた。
「ねえ。キミの雪城は、飼い犬みたいなものなのかな?」
この問いに黒姫はふるふる首を振ると、満面の笑みを浮かべて雪城の首をギュッと抱き締めた。
「恋人です!」
このトンデモ発言に、その場にいた誰もが絶叫した。
近侍日記 △月△日。
当番:前田
主君は相変わらずうっかりさんですね。狼と犬とを見間違えるだなんて。
ですが、狛犬だって現代では獅子に近い容姿に変わっていますから、主君ばかりを責められないかも知れません。
その雪城が、黒姫の特別な相手というのは本当なのでしょうか…うーん?
了
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